思考中

ライターです。ドラマと音楽が好きです。もうすぐ24歳

分かり合えないこと

私は記事の編集・制作の仕事をしているのだけれど、企画を立てるときにパートナーシップをテーマに考えることが無意識に増えた気がしている。

というのも私はずっと、人と人は分かり合えないと思っていて、ここ半年間、それを再認識する出来事がたまたま自分の中で重なってしまって……。

で、パートナーシップというのは「分かり合えない同士、分かり合えないと知りながらも分かりおうとする関係」の最たるものだと思っていて。自分の中で潜在的に感じている「分かりあえなさについて、もっと納得したい」みたいな欲求を企画で解消しようとしているんだな。多分。

 

私の両親はすごく不仲だった。喧嘩している二人や、怒鳴り散らして物に当たったり車で猛スピードで飛ばしている父を横目に、いつも「怖い」「逃げたい」と思っていた(実際に何回も逃げたし、家出もして母を悲しませた)。

「分かり合えなさ」への興味の原点は、多分ここにあるのだと思う。

と言っても、父の場合は「わかり合おう」とするだけ時間が無駄になってしまうくらい、自己中心的で他責的な考え方をする人だったから、彼については少し例外だけど(彼にも彼で辛い家庭環境が育った過去があるから、そこも最近は考慮できるようになってきた。許しはできないけど)。

 

怖い怖いとばかり感じていた子供時代を経て、実際に自分に親友や恋人ができた時に、やっぱり分かり合えなさに直面しては辛い思いをした。20歳になるくらいまで、私は「人間は分かり合える生き物だ」「近い距離にいればわかるはず」とどこか勘違いしていて、「親友や恋人なら、分かり合えるはず。そのためには体当たりも厭わない」くらい悪手なアクティブ精神を持っていた。

 

でも、やっぱり結局分かり合えない。「分かり合えないんだ……」と勝手にショックを受けて自分から離れたり、逆に「わかり合おうとするな」と相手から離れていかれたこともあった。どれも本当に悲しかった。

 

回り回って、今は「分かり合えないこと」を前提に物事を考えているわけだけど、自分が大切にしたいな、ずっと一緒にいたいな、と思う人がいても、「どれだけ近い距離にいても100%分かり合えないぞ」と自分の頭の中のもう一人の自分に語りかけてもらうようにしている。

それでも最近、「そんなに白黒はっきりつけようとするな」と言われた出来事があったのだけれども、やっぱり私はどこかで分かり合うことを諦めていないのだなとも思った。

 

でも、だ。

もちろん、人間は分かり合えない。相手の領域や心に土足で踏み込んで「分かりたいです!」と言うのは、相手を傷つける行為にもなり得る。過度に「分かりたい、分かりたい」と飢えるように思っているのは、寂しさによる飢餓感を相手に押し付けているだけなのではとも思う。

だけど、その「分かり合おうとする暴力」と一旦切り分けて、「自分の中に、相手とわかり合いたい気持ちがあるのだ」と感情を認めることくらい、許してもいいのではないかとも思うのだ。

 

相手とは分かり合えない。でも分かりたいという気持ちがある。「分かり合えない」という現実をどうしても取っ払いたいなら、どうしてそこまで分かりたい気持ちがあるのかを考える。自分を満たせていない欠乏感に飢えているからなのか、それとも相手への限りない興味・好意なのか。まずは自分を理解して心の湖を水で満たしてから、相手と向き合う。今の私がパートナーシップについて考えるには、これに尽きるのではないだろうか。

 

……と、長々文章を書いてしまった……。これからパートナーシップ企画を行う前に、自分で整理しておきたいなと思って文章を書いた。終わり。