思考中

ライターです。ドラマと音楽が好きです。もうすぐ24歳

誰かの傷

Twitterで「#おかえりモネ」「#俺たちの菅波」がトレンドに入っていて、懐かしくなって80話目を観た。思ったよりもめちゃくちゃ泣いてしまった。

このドラマは東日本大震災を通して、そこにいた人/いなかった人にかかわらず傷を負ってしまった若者たちを描いていて、その傷にどう向き合うのか、他者としてどんな関わり方ができるのかをすごくすごく繊細に描いた物語だった。

 

主人公の百音は、震災で大きな被害に遭った島が地元なのだが、2011年3月11日は高校受験で島を離れていた。津波や火災、壮絶な避難。自分はその場にいなかったから、その場にいた家族や友達の気持ちがきちんとわかることができない、と葛藤している。おばあちゃんを家に置いてきてしまったと罪悪感に苛まれ続けている妹にも、「お姉ちゃんは津波見てないもんね」と言われてしまったことも、百音を悩ませる大きな要因になっていた。

 

「その場にいなかった自分に、震災に遭った当事者の気持ちはわからない」と思う百音もまた、震災を通して大きな傷を負っているわけで。そんな彼女のそばにただ「居る」のが、菅波だ。80話目は彼とモネが思いを通じ合わせる、いわゆる「神回」みたいな回なのだが、その愛の言葉が「あなたの痛みは分かりません。でも、分かりたいと思っています」だった。

 

この言葉が私はずっと忘れられなくて。相手の感じるものを否定しない。自分の色眼鏡で曲解することもしない。あなたの領域に侵入しない。でも、受け止めたい。

なんて誠実な愛の言葉なんだろうと感動して、それからは私も自分が「大切だなぁ」と思う相手に対して、このスタンスで接するように心がけているのだけど。

 

でもやっぱり、このスタンスってすっごく難しくて、時には痛みを伴うものなんだよなぁ〜〜〜〜と、ヒシヒシと感じている。

人間関係って、距離が近くなればなるほどうっすらコントロールしたい気持ちも出てくるし、自分の思う通りに物事を進めたい欲が湧いてくることもある。でもそれは相手の「感じるもの」「痛み」を素通りしたり、否定したりすることにもつながり得る。自分と相手の気持ちをその都度確認しながら対話ややりとりを進めることって、本当はすごくエネルギーが必要で、時間のかかることでもある。結局は「あなたの気持ちはわからないけど、受け止めたい」というのは、それに見合う自分の器の大きさがないと、できないことなのではないか。自分のエゴや欲をまっさらにしないと、このスタンスには辿り着けないのではないかと。

 

最近自分も「あなたの痛みは分からないけど分かりたい」と伝えた相手がいたのだけど、結局自分のエゴや人間としての薄さ・小ささが露呈して、最終的にねじれたコミュニケーションを招いてしまったことがあった。

結局は「あなたの痛み」をわかるには、自分にしかない「痛み」にも気づいている必要があるんだな、と思ったのだ。

ねじれたコミュニケーションの最中に感じていたのは、「どうしてこの人は私の気持ちをわかってくれないのだ」とかではなかった。自分の器の小ささに向き合うしんどさだった。相手が私の気持ちをわからなくてもいいし、わかるもわからないも相手の自由なんだけど、やっぱりどこかで自分のエゴが見え隠れしてしまう弱さに向き合うのが、何よりつらかった。

 

「おかえりモネ」80話目を観ながら予想以上に号泣してしまったのは、そういう人間関係の脆さや繊細さを痛感している真っ最中だったから。百音と菅波は、私よりもずっとずっと、丁寧に相手を受け止めながらコミュニケーションを重ねた上で、「愛の言葉」を交わし合ったのだ。私にはそれができなかった。その悲しみの涙でもある。

 

私は、私の「痛み」を癒してあげるために、そしていつか相手の「痛み」も癒してあげられるように、自分の心を大きくしていきたい。そして今回は伝わらなかった「あなたの痛みは分からないけど、分かりたい」を本当の優しさで誰かに伝えられる日が来ますように。