思考中

ライターです。ドラマと音楽が好きです。もうすぐ24歳

口数

自分って口数が多いな、と思う。だから、ボソッと話す人が魅力的に見える。

言葉って語れば語るほど(それも必死かつ主観的に)、場合によって価値が薄まるパターンが多い気がしているのもある。

私はライターをしているけど、1文で1の価値/10文で10の価値を伝えるのでなく、1文で10の価値/10文で100の価値を伝えられる、そんな文章が理想的だと思っている。

要するに、少ない言葉で的確に価値を伝えられることがいい…だから語りすぎるのは、なんだか野暮に見えてしまう気がした。

 

でもこの前、「いや、そうでもないのかも」と思うことがあった。

Creepy NutsのANNを聴いた。彼らはめちゃくちゃ喋る。いつ息してるんだろうと思うくらい。そしておもしろい。

で、ふと「じゃあこの人たちの話は、語りすぎで野暮なものなのか?」と考えてみたのだが、「そんなはずない!」と思えた。確かにアングラ感もあるし、話しすぎで庶民感もあるのだけど、それがまた魅力というか。

何より彼らはヒップホップを生業にしていて、ざっくりいうと音楽と言葉のあやでモノを生み出す仕事をしているわけで。同じ言葉を扱うものとして、「しゃべりすぎは無価値だ!」なんて思うのは非常に暴論だったな、と反省した。

 

それでも、私は口数の多い自分に満足できなくて、どうしてだろうと考えてみた。

そして、これはきっと自分の心の問題なのだと気づいた。

要するに、私がどうして口数が多いのかというと、「この思いをわかってほしい」と伝える相手への強い思いがベースにあるからなのだと思った。これは非常に暴力的な気がしている。

特に母や気の許した友達、時には恋人に対して、「私はこう思っていて」を強く押し出すことが多い。そのときは特に何も思わないけれど、時間が経ってやりとりを思い出して、「もしかしてあのとき、私は遠回しかつ無意識に、相手の気持ちを無視して自分の思いを伝えることを優先していたのではないか」と猛省することが多い。

その度に、「少しは黙ろう」と思うのだ。

 

ただ、先の話に戻るけど、これは決して口数の問題ではないのだ。

相手の思いを丁寧かつ慎重に汲み取ろうとしているかどうか、というその姿勢の話なのだろう。

私は中学生の頃から、どこか卑屈で斜に構えた態度を取る癖があるな、と思っていて、それもあってか、根底では自分以外の他人を見下しているのではないかと、自分が怖くなる時がある。

そんな態度が、日常的な会話にもあぶり出ていて、結局は自分の思いが第一主義の利己的な対人姿勢になってしまっているのでは…と。

やや自虐的になりすぎかもしれないけれど、ある意味この分析は間違っていないのではないかな。

 

確かに20代になってからは生きることに必死で、ある意味その態度はそんな自分を守るための保守的な行動なのかもしれない、とも思う。

歳をとるごとに、より自分らしさが深まり生きやすくなったのと同時に、その自分を受け入れたいという思いの強まりから、悪い意味で「自分を認めない」という排他主義になっているな、と感じている。

その一方で、より良い暮らしや人生を目指すが故に、仕事やプライベートで自分よりも豊かなものを手に入れている人を見れば、すごく落ち込むことも多い。

自分が一番大事なのに、他者と比較しては落ち込む。そんな矛盾のある20代を必死に生きるためにも、なんとか自分を守ることに必死でいずにはいられない、というところかなと。

 

もっと、自分にも他人にも寛容でいられないのかな。

必死におしゃべりをすることで相手を踏むのではなく、相手と自分の言葉が優しくミルフィーユを織りなすような対話をしていきたい。そんな心の余裕が持てたら、どれだけ毎日が豊かになるのだろうかと悩む。