思考中

ライターです。ドラマと音楽が好きです。もうすぐ24歳

痩せた

去年11月に書いた以下の記事と対になるのだけど、痩せた。

music-pont.hatenadiary.jp

半年ぶりくらいに体重計に乗ってみると、ピークから4キロ痩せていた。身長152センチの私からすると、大きすぎる変化だ。

 

ちなみに、ダイエットはしていない。1日3食、毎日ランニングとストレッチ。これはピーク時とは変わらない。

 

前太ったときに考えられる原因として「ストレスがなさすぎる」と書いた。

仕事も充実していてそれなりに楽しいし、人間関係で悩んでいない。悩むような相手が現れたら、解決する必要がない限りは即座に去っている。必要のない苦しみから避けられるように、楽しくひっそりと生きている。

 

本当にこの通りだなと思う。この時に比べて、ストレスが結構増えた。

今年の4月に転職して、5月に1人暮らしを始めた。9月になるまでの間にWワークの仕事も格段に増えた。色んな意味で、昨年度に比べて自分に課されている重責が重くなった。プライベートでも久しぶりに失恋みたいなのをしたし、人間付き合いも少し変えたこともあって、本来自分に向けているベクトルが大きく他者に向いていた半年でもあったなぁと思う。

別にどうってことない。人生や生活ってそういうことの繰り返しだ。歳を取れば仕事の重責は増すし、人間付き合いが変わることもあれば、失恋することもあるだろう(誰かと別れたとかではないので、ダメージはそこまで大きくないし)。でも、確実に去年11月に比べて小さなストレスの母数が増えている。それが体重4キロ減につながっているのかはわからないけど、要因の一つかなと推察してしまうほどに、4月〜9月の年度上半期は結構心を使う期間を過ごした。で、今もその時間は続いている。

 

なんだか疲れたなぁ、と実家に帰って一息ついている今、思う。正直、仕事を終えてホッとしている時間に、ふと泣いたりしてしまうことが増えた。ドラマを観ては無性に涙して、ティッシュを大量消費してしまうことも多々ある。

 

理由はまだ言語化できていない。1人暮らしの寂しさも大きいのかな。気づけば20代半ば。これからどうしよう、自分はこのままでいいのだろうか……。この漠然としたクオーター・ライフ・クライシスっぽい不安に覆われているのが、今の私なんだろう。

 

心の平安を第一に考えながら自分に必要なものを取捨選択していくからこそ、感じる不安なのだろう。私はずっと、「自分を大切にするには、自分にとって幸せだと思えるものを選び、自分を不幸にするものは手放すべきだ」と思っていた。今でもそのスタンスは変わらない。でも、その取捨選択は自分を大切にするための楽しい作業だと思っていたけど、その最中にある今、実は苦しい作業でもあるのだと気づく。もうすぐ25歳だ。

誰かの傷

Twitterで「#おかえりモネ」「#俺たちの菅波」がトレンドに入っていて、懐かしくなって80話目を観た。思ったよりもめちゃくちゃ泣いてしまった。

このドラマは東日本大震災を通して、そこにいた人/いなかった人にかかわらず傷を負ってしまった若者たちを描いていて、その傷にどう向き合うのか、他者としてどんな関わり方ができるのかをすごくすごく繊細に描いた物語だった。

 

主人公の百音は、震災で大きな被害に遭った島が地元なのだが、2011年3月11日は高校受験で島を離れていた。津波や火災、壮絶な避難。自分はその場にいなかったから、その場にいた家族や友達の気持ちがきちんとわかることができない、と葛藤している。おばあちゃんを家に置いてきてしまったと罪悪感に苛まれ続けている妹にも、「お姉ちゃんは津波見てないもんね」と言われてしまったことも、百音を悩ませる大きな要因になっていた。

 

「その場にいなかった自分に、震災に遭った当事者の気持ちはわからない」と思う百音もまた、震災を通して大きな傷を負っているわけで。そんな彼女のそばにただ「居る」のが、菅波だ。80話目は彼とモネが思いを通じ合わせる、いわゆる「神回」みたいな回なのだが、その愛の言葉が「あなたの痛みは分かりません。でも、分かりたいと思っています」だった。

 

この言葉が私はずっと忘れられなくて。相手の感じるものを否定しない。自分の色眼鏡で曲解することもしない。あなたの領域に侵入しない。でも、受け止めたい。

なんて誠実な愛の言葉なんだろうと感動して、それからは私も自分が「大切だなぁ」と思う相手に対して、このスタンスで接するように心がけているのだけど。

 

でもやっぱり、このスタンスってすっごく難しくて、時には痛みを伴うものなんだよなぁ〜〜〜〜と、ヒシヒシと感じている。

人間関係って、距離が近くなればなるほどうっすらコントロールしたい気持ちも出てくるし、自分の思う通りに物事を進めたい欲が湧いてくることもある。でもそれは相手の「感じるもの」「痛み」を素通りしたり、否定したりすることにもつながり得る。自分と相手の気持ちをその都度確認しながら対話ややりとりを進めることって、本当はすごくエネルギーが必要で、時間のかかることでもある。結局は「あなたの気持ちはわからないけど、受け止めたい」というのは、それに見合う自分の器の大きさがないと、できないことなのではないか。自分のエゴや欲をまっさらにしないと、このスタンスには辿り着けないのではないかと。

 

最近自分も「あなたの痛みは分からないけど分かりたい」と伝えた相手がいたのだけど、結局自分のエゴや人間としての薄さ・小ささが露呈して、最終的にねじれたコミュニケーションを招いてしまったことがあった。

結局は「あなたの痛み」をわかるには、自分にしかない「痛み」にも気づいている必要があるんだな、と思ったのだ。

ねじれたコミュニケーションの最中に感じていたのは、「どうしてこの人は私の気持ちをわかってくれないのだ」とかではなかった。自分の器の小ささに向き合うしんどさだった。相手が私の気持ちをわからなくてもいいし、わかるもわからないも相手の自由なんだけど、やっぱりどこかで自分のエゴが見え隠れしてしまう弱さに向き合うのが、何よりつらかった。

 

「おかえりモネ」80話目を観ながら予想以上に号泣してしまったのは、そういう人間関係の脆さや繊細さを痛感している真っ最中だったから。百音と菅波は、私よりもずっとずっと、丁寧に相手を受け止めながらコミュニケーションを重ねた上で、「愛の言葉」を交わし合ったのだ。私にはそれができなかった。その悲しみの涙でもある。

 

私は、私の「痛み」を癒してあげるために、そしていつか相手の「痛み」も癒してあげられるように、自分の心を大きくしていきたい。そして今回は伝わらなかった「あなたの痛みは分からないけど、分かりたい」を本当の優しさで誰かに伝えられる日が来ますように。

 

分かり合えないこと

私は記事の編集・制作の仕事をしているのだけれど、企画を立てるときにパートナーシップをテーマに考えることが無意識に増えた気がしている。

というのも私はずっと、人と人は分かり合えないと思っていて、ここ半年間、それを再認識する出来事がたまたま自分の中で重なってしまって……。

で、パートナーシップというのは「分かり合えない同士、分かり合えないと知りながらも分かりおうとする関係」の最たるものだと思っていて。自分の中で潜在的に感じている「分かりあえなさについて、もっと納得したい」みたいな欲求を企画で解消しようとしているんだな。多分。

 

私の両親はすごく不仲だった。喧嘩している二人や、怒鳴り散らして物に当たったり車で猛スピードで飛ばしている父を横目に、いつも「怖い」「逃げたい」と思っていた(実際に何回も逃げたし、家出もして母を悲しませた)。

「分かり合えなさ」への興味の原点は、多分ここにあるのだと思う。

と言っても、父の場合は「わかり合おう」とするだけ時間が無駄になってしまうくらい、自己中心的で他責的な考え方をする人だったから、彼については少し例外だけど(彼にも彼で辛い家庭環境が育った過去があるから、そこも最近は考慮できるようになってきた。許しはできないけど)。

 

怖い怖いとばかり感じていた子供時代を経て、実際に自分に親友や恋人ができた時に、やっぱり分かり合えなさに直面しては辛い思いをした。20歳になるくらいまで、私は「人間は分かり合える生き物だ」「近い距離にいればわかるはず」とどこか勘違いしていて、「親友や恋人なら、分かり合えるはず。そのためには体当たりも厭わない」くらい悪手なアクティブ精神を持っていた。

 

でも、やっぱり結局分かり合えない。「分かり合えないんだ……」と勝手にショックを受けて自分から離れたり、逆に「わかり合おうとするな」と相手から離れていかれたこともあった。どれも本当に悲しかった。

 

回り回って、今は「分かり合えないこと」を前提に物事を考えているわけだけど、自分が大切にしたいな、ずっと一緒にいたいな、と思う人がいても、「どれだけ近い距離にいても100%分かり合えないぞ」と自分の頭の中のもう一人の自分に語りかけてもらうようにしている。

それでも最近、「そんなに白黒はっきりつけようとするな」と言われた出来事があったのだけれども、やっぱり私はどこかで分かり合うことを諦めていないのだなとも思った。

 

でも、だ。

もちろん、人間は分かり合えない。相手の領域や心に土足で踏み込んで「分かりたいです!」と言うのは、相手を傷つける行為にもなり得る。過度に「分かりたい、分かりたい」と飢えるように思っているのは、寂しさによる飢餓感を相手に押し付けているだけなのではとも思う。

だけど、その「分かり合おうとする暴力」と一旦切り分けて、「自分の中に、相手とわかり合いたい気持ちがあるのだ」と感情を認めることくらい、許してもいいのではないかとも思うのだ。

 

相手とは分かり合えない。でも分かりたいという気持ちがある。「分かり合えない」という現実をどうしても取っ払いたいなら、どうしてそこまで分かりたい気持ちがあるのかを考える。自分を満たせていない欠乏感に飢えているからなのか、それとも相手への限りない興味・好意なのか。まずは自分を理解して心の湖を水で満たしてから、相手と向き合う。今の私がパートナーシップについて考えるには、これに尽きるのではないだろうか。

 

……と、長々文章を書いてしまった……。これからパートナーシップ企画を行う前に、自分で整理しておきたいなと思って文章を書いた。終わり。

2022/3/29 良い日

今日は良い日だなと思う。

別に、特段スペシャルなイベントがあったわけでも、さして良いことがあったわけでもないけど、ふと「良い日だな」と思った。

 

今日は7時半に起きて、メイクをして、ご飯を食べながら朝ドラをみていた。

ヒロインのひなたが元彼に再会してドキドキしたり切なくなったりしているのだが、いつもはドラマに対してそれほど感情移入したりしないドライな母が「切ないね〜😭」と言い出して、珍しくてちょっとびっくりした。

一方私は「いや、この元彼数日後にはアメリカに戻るし、ヨリ戻しても遠距離恋愛になるやん。私なら速攻でストライクゾーンから外すわ」と話したりした。いつもこんな感じで意見が割れる。

 

そのあとはゆっくり準備して通勤し、9時半に出勤。原稿一つ仕上げて、今は昼休み。

あと数日で退職なので、職場近所のお気に入りパスタ屋さんに最後に来ている。

 

今日は天気が良い。歩いていて気持ちよい。

お昼が終わったら、有給消化で退勤する。

明日も有給で、友達数人でお花見。明後日は最終出勤日。次の日からは新しい職場に入社。

バタバタしたりゆっくりしたり、メリハリが激しいけど、すごく良い日常だな。

毎日慈しんで生活している、と自覚するだけで、心がすごく豊かになる。気がする。

 

太った

太った。かなりの痩せ型から、普通寄りの痩せ型になった。

周囲からは痩せキャラで思われている私が「太った」というと本当に嫌味になってしまうのだが、本当に太ってしまった。

なんでかな〜と思った。特に食べる量が増えたわけではないので、適当に「太った 食べる量 少ない」みたいに検索してみたら、「原因はストレス」みたいなサイトがヒットして、「んなわけ」となった。

 

母にそのことを話してみた。すると母が「ストレスがなさすぎるんじゃない?」と。

そうかも、と思った。というのも私が前に体重計に乗ったのは1年以上前で、当時は学生時代だ。社会人になって、コロナ禍になって、生活スタイルが丸切り変わった。

そして、学生時代に比べて、ストレスも10分の1くらいになった。

 

考えられる原因は、

・通学/通学の時間が格段に減った

(学生時代は京都〜大阪市内〜大阪郊外を行き来しすぎて、1日の大半を電車で過ごしていた)

・人間関係がスリムになった

(好きな人としかつるまなくなったし、無駄な予定を入れなくなったし、職場の人間関係にも悩みがない)

・生活スタイルが整った

(学生時代は大学、バイト、仕事、遊び、用事、とあちこち忙しすぎて、生活スタイルが乱れていたけど、今はある程度ルーティーンが定まっている。平日ガシガシ働き、土日ゆったり働いたり遊んだり)

・今のところ鬱っぽくなるような悩みがない

(学生時代は関わりたくないのに関わらなければならない人間、家族、恋愛、仕事への焦燥感など。繰り返し訪れていたのは涙、嘆き、悲しみ、怒り、葛藤、泥沼、略)

 

ってな感じで、すごく楽なんだな〜今。

仕事も充実していてそれなりに楽しいし、人間関係で悩んでいない。悩むような相手が現れたら、解決する必要がない限りは即座に去っている。必要のない苦しみから避けられるように、楽しくひっそりと生きている。

思い返すと中学時代、150センチ/37キロくらいになったことがあって、もうそれはそれは人間関係と受験へのストレスで心がボロボロ砕けてた。周りから「大丈夫?」と言われて、目の下に真っ黒のクマをつけて一生懸命「大丈夫」と笑っていた。私はストレスで痩せるのだ。

 

で、今だ。なんとなく楽に生活できるようになった今、結果的に太った。さすがにこれ以上増やしたくはないので、今は間食を減らしているし、無駄にカフェラテとか飲まないし、お酒もビール・日本酒を控えて、どうしても飲みたくなったらハイボールを飲んでいる。

 

で、今はすごくストレスが少ないわけだけれども、これで良いのか?と思っている。

やっぱり私もまだまだ若いわけで、「楽して生きよう」みたいな隠居おばあちゃんみたいなこと言ってられない気がする。まだまだ20代、チャレンジングな女でありたいと思っているわけだ。だから最低限、仕事には真面目に打ち込んでいる。

 

今、ちょうど転職活動をしている。おそらく、またストレスを抱えるだろう。

でも多分、その時になってみたら「これも悪くないな」と心のどこかで思うのもまた、事実なのだと思う。

2021/11/14

私は米津玄師のファンなのだけれど、彼が過去に匿名で開いていたお悩み相談室で、彼は「幸せへのハードルは低ければ低いほど良い」みたいなことを言っていて、激しく心の中で「わかるわかる」と頷いた記憶がある。

私も若い頃(と言っても今も若いけど)は、何か実体のない大きなものを求めて生きていた気がする。自分は何かを成し遂げるのだと思ったり、友達と遊んでいても見栄えの良い写真ばかり撮ろうとしたり、彼氏ができたら映えスポットデートらしいことをしたり、「君だけを愛してる」みたいな大袈裟でロマンチックな言葉を求めたり。大きなものを得て初めて、「幸せ」というものが手に入るのだと。それを手に入れるために、虚しく一生懸命生きていた時もあった。

でも違うんだな、と思ったのは3年くらい前のこと。大きなものを手に入れられて、心の底から幸福感を味わえるかといえば、必ずしもそうではないと知った。それは虚しくがむしゃらに生きて、側から見て大きなものを手に入れたのに、自分の心が幸せじゃなかったと気づいた時があって、その瞬間に悟った。

じゃあ幸せだな、と思いながら生きるにはどうすればいいのか、考えてみたけど、当時はわからなかった。

そんなとき、ドラマ『きのう何食べた?』に出会って、あぁ、こういうことなんだな、と腑に落ちた。日常でドラマチックなことは起きなくても、目の前に大切な人がいて、一緒にご飯を食べて、おいしいね、と言い合う。それだけで幸せなことなだ、これはありふれた当たり前のことではないのだ、と知った。

私にとって幸せはじゃあ何なんだというと、なに不自由なく歩ける健康な足を持っていること、その足で遠くまで赴き景色を楽しむ目を持っていること、音楽が聴ける耳があること。家に帰ると家族がいて、毎日仲良くご飯が食べられること。信頼できる人がたくさんいること。

誰と比べるでもない、ただ自分が幸せと思うポイントを持っているだけで、すごく日常は豊かなんだな〜。と『何食べ』を観て思ったのだ。

昨日、親戚の赤ちゃんに会った。赤ちゃんと言っても1歳で、遠くに住んでいるから会うのは2度目。ついこないだ生まれたばかりなのに、会っていない間に1歳になってしまった。赤ちゃんの成長は早い。

これが幸せなのだな、と思う。生まれたという事実だけでもドラマチックな出来事で、そこから赤ちゃんは声を出したり、離乳食を食べたり、歩いたり、意思表示をしたり、初対面の人間に慣れたり、と小さな小さな成長を重ねて、大人に近づいていく。

次に会うのはいつだろう。きっと、少しは言葉も話せるはず。今この瞬間のこの子に会えることは、この先、金輪際ないのだ。

それは赤ちゃんに限らず、年老いた祖父母、まだ生きている曽祖母、いや、20〜50代の若い世代だって、次会うときには何がどう変わっているのかはわからない。それでも今、ここに元気に集っている。その事実こそが幸せだと思った。

今、ここにあるもので満ち足りている。心底そう思えるのは、案外難しい。

今は満ち足りていると感じていても、何かのきっかけで大きな欠落を感じて苦しむ時がやってくるだろう。それでも、「あれがない」「これがない」とないものねだりの自分に戻りたくないと思う。

藤井風の『特にない』という曲がある。望みや見返りへの欲求もない、満たされている、と歌った曲だ。

菩薩が悟りを開いたような歌詞なので、さすがにこの境地に辿り着くことはできないけど、一つのお手本でもあるなぁと感じる。

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口数

自分って口数が多いな、と思う。だから、ボソッと話す人が魅力的に見える。

言葉って語れば語るほど(それも必死かつ主観的に)、場合によって価値が薄まるパターンが多い気がしているのもある。

私はライターをしているけど、1文で1の価値/10文で10の価値を伝えるのでなく、1文で10の価値/10文で100の価値を伝えられる、そんな文章が理想的だと思っている。

要するに、少ない言葉で的確に価値を伝えられることがいい…だから語りすぎるのは、なんだか野暮に見えてしまう気がした。

 

でもこの前、「いや、そうでもないのかも」と思うことがあった。

Creepy NutsのANNを聴いた。彼らはめちゃくちゃ喋る。いつ息してるんだろうと思うくらい。そしておもしろい。

で、ふと「じゃあこの人たちの話は、語りすぎで野暮なものなのか?」と考えてみたのだが、「そんなはずない!」と思えた。確かにアングラ感もあるし、話しすぎで庶民感もあるのだけど、それがまた魅力というか。

何より彼らはヒップホップを生業にしていて、ざっくりいうと音楽と言葉のあやでモノを生み出す仕事をしているわけで。同じ言葉を扱うものとして、「しゃべりすぎは無価値だ!」なんて思うのは非常に暴論だったな、と反省した。

 

それでも、私は口数の多い自分に満足できなくて、どうしてだろうと考えてみた。

そして、これはきっと自分の心の問題なのだと気づいた。

要するに、私がどうして口数が多いのかというと、「この思いをわかってほしい」と伝える相手への強い思いがベースにあるからなのだと思った。これは非常に暴力的な気がしている。

特に母や気の許した友達、時には恋人に対して、「私はこう思っていて」を強く押し出すことが多い。そのときは特に何も思わないけれど、時間が経ってやりとりを思い出して、「もしかしてあのとき、私は遠回しかつ無意識に、相手の気持ちを無視して自分の思いを伝えることを優先していたのではないか」と猛省することが多い。

その度に、「少しは黙ろう」と思うのだ。

 

ただ、先の話に戻るけど、これは決して口数の問題ではないのだ。

相手の思いを丁寧かつ慎重に汲み取ろうとしているかどうか、というその姿勢の話なのだろう。

私は中学生の頃から、どこか卑屈で斜に構えた態度を取る癖があるな、と思っていて、それもあってか、根底では自分以外の他人を見下しているのではないかと、自分が怖くなる時がある。

そんな態度が、日常的な会話にもあぶり出ていて、結局は自分の思いが第一主義の利己的な対人姿勢になってしまっているのでは…と。

やや自虐的になりすぎかもしれないけれど、ある意味この分析は間違っていないのではないかな。

 

確かに20代になってからは生きることに必死で、ある意味その態度はそんな自分を守るための保守的な行動なのかもしれない、とも思う。

歳をとるごとに、より自分らしさが深まり生きやすくなったのと同時に、その自分を受け入れたいという思いの強まりから、悪い意味で「自分を認めない」という排他主義になっているな、と感じている。

その一方で、より良い暮らしや人生を目指すが故に、仕事やプライベートで自分よりも豊かなものを手に入れている人を見れば、すごく落ち込むことも多い。

自分が一番大事なのに、他者と比較しては落ち込む。そんな矛盾のある20代を必死に生きるためにも、なんとか自分を守ることに必死でいずにはいられない、というところかなと。

 

もっと、自分にも他人にも寛容でいられないのかな。

必死におしゃべりをすることで相手を踏むのではなく、相手と自分の言葉が優しくミルフィーユを織りなすような対話をしていきたい。そんな心の余裕が持てたら、どれだけ毎日が豊かになるのだろうかと悩む。